カナダとケベック州の歴史

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カナダの歴史
16世紀 アジアへの新たなルートを求めてフランスやイギリスの探検家が大西洋岸を往来し始めます。
やがて植民地利権をかけた激しい争いが起きます。
1759年 パリ条約が結ばれて、全植民地が100年以上に渡ってイギリスの支配下におかれました。
1867年 7月1日、4州(オンタリオ、ケベック、ニューブラウンズウィック、ノバスコシア)の統合でカナダ自治領が成立。
1982年 カナダ自主憲法が成立。
エリザベス2世女王(総督が女王を代表)、イギリスへの法的従属性を解消しました。現在、政治機構は立憲君主制になります。
カナダの女王でもあるエリザベス女王2世は"君臨すれども統治せず"で、その権限をカナダ総督に委任しています。
ケベック州の歴史 「ケベック」というと呼び名はアルゴンキン・インディアンの言葉で「狭い通路」と言われ、もともとは現在のケベックシティがある部分で、セントローレンス川が狭まっていることを意味していました。

先住民はインディアンのアルゴンキン族と、イロクワ族で、州北は、昔も今もイヌイット(以前はエスキモーと呼ばれていた)が暮らしています。
1534年 ヨーロッパ人との関わりは、フランスの探検家ジャックカルチェがやってきたときからになります。
毛皮貿易の盛んな時代がやってきて、先住民とは比較的友好関係を保っていました。そして、フランスの植民者とイギリスの植民者の抗争の時代が続きます。
1608年 ケベックシティはに「ニューフランス」の首都となり、「第2にフランス」と呼ばれました。フランス植民地時代は、要塞都市が交易と発展の重要な中心となります。

何度も失敗を重ねた後、フランスのサミュエル・ド・シャンプランは毛皮の交易所を設けるために、ここに入植、その後、セントローレンス湖畔に砦を建設した。

植民者はなかなか増えず、20年後もわずか65人でしたが、先住民との友好、衝突を繰り返しながら、1615年には五大湖地方に足を踏み入れます。しかし。この地域にフランス政府はほとんど無関心だったし、強力な先住民イロコイ語族同盟の抵抗に悩まされつづけ、何度も崩壊の危機にさらされました。
1663年 こうした危機を脱したのは1663年、「ニューフランス」(ケベックシティ)がフランス国王政府の直接統治に入ったおかげでした。このころのフランスはヨーロッパ最強に国となっていたため、人口も急増し、毛皮を追って領土もぐんぐんと拡大しました。

こうしてフランスは「ニューフランス」(ケベックシティ)を拠点に勢力を伸ばし、18世紀はじめには、北米大陸のおよそ4分の3を占める巨大な地域を勢力圏としました。
以後、150年間にわたって、フランス文化発祥の地として繁栄を続けました。

しかし、ヨーロッパを中心に長年戦いつづけてきたイギリスとここでも衝突することになります。
1701年 スペイン継承戦争に破れたフランスは、勝者のイギリスに、ハドソン湾、アカディア、ニューファンドランドを渡しました。
これによって、フランス領土は東西をイギリスにはさまれてしまうことになりました。

1759年 何度かの攻防戦の末、ついに1759年歴史的な瞬間がやってきます。北米における英仏の抗争は、七年戦争で頂点に達しました。

その年の夏、イギリスは海軍と陸軍となる大舞台をケベックに派遣しました。その時の指揮官はジェームス・ウルフ将軍。
まもなく、イギリス軍の包囲が始まりました。ところが、「ニューフランス」(ケベックシティ)の町はセントローレンス河から98mも高台にあり、町全体が自然の要塞となっていたため、イギリス軍は上陸に往生しました。

そのうちに、ウルフ将軍は城塞の崖の上に上陸できそうな場所を発見、9月13日の早朝、5000人のイギリス軍が上陸に成功しました。そしてこの時、フランスのモンカルム将軍が決定的なミスをしました。それは城塞を出て、アブラハム平原で戦うというものでした。

フランス軍は戦闘術、士気、火力、軍隊、いずれの点でもイギリス軍に劣っていたにもかかわらず、いうまでもなく、
城塞からでてきたフランス軍はあっというまに壊滅させられました。戦いはわずか15分足らずで終わったとも言われているほどになります。

翌年、5月、「ニューフランス」(ケベックシティ)はイギリス軍に降伏しました。
1763年 パリ条約が結ばれて、「ニューフランス」(ケベックシティ)はイギリス国の植民地となり、すべての植民地はイギリスの手にわたりました。
こうして、「ニューフランス」の時代は幕を閉じ、イギリス支配の時代が始まりますが、旧フランスはフランス系住民が大半を占める土地であり続けました。
イギリス人は増えず、総督たちもイギリス風の代議政治よりも従来のフランス流の政治体制のほうが統治しやすいという態度をとりました。
1774年 イギリスは「ケベック法」によってフランス系住民が圧倒的なケベック地方の特殊性を認めて、フランスの民法を公認、信教の自由を保障し、フランス語の使用を公式に認めました。
この特別扱いによって、ケベックを中心にフランス的な要素が維持され、カナダの歴史に個性と複雑さを与えつづけました。
1791年 アメリカの独立戦争後もイギリスの支配下にとどまる事を希望したロイヤリストがケベック西部に移住するため北へと大量に流入したため、この植民地をふたつに分けることになります。
こうして後にオンタリオとなる「アッパーカナダ」とケベックになる「ローワーカナダ」が誕生しました。
1837年 両地域に反乱が起こり、2つの地域は1840年の連合法で再び統一されてカナダ州となりました。

1867年 7月1日、4州(オンタリオ、ケベック、ニューブラウンズウィック、ノバスコシア)の統合でカナダ自治領が成立。
ケベックはカナダ自治領の創立メンバーとなりました。
農村的正確とローマ・カトリック教会の支配によって、ケベックは長い間、伝統的な農村社会にとどまりました。
1920年 40年にかけて起こった第二次産業革命によって都市化と生活水準の向上を迎えました。
1960年 ケベックの移行期が始まりました。「静かな革命」が始まります。休息な経済成長と文化的誇り、現代社会のニーズに合わせた政治組織の改革が、この時代の特徴になります。
「静かな革命」はまた、政治的緊張とカナダ連邦とケベック州間の論争の時代の幕開きでもありました。
州が自らの経済と社会の支配権を拡大しようとしたからでした。遺憾なことに、1970年の政治的誘拐事件などテロリズムの動きが、(カナダにおける)ケベックの地位の問題を鋭く浮き彫りとなりまし。
1976年 ケベック州民はケベック党に勝利を与えました。ケベック党は、連邦からの独立を唱えており、フランス語を州の唯一の公用語とした。
1980年 カナダとの主権連合をめぐって交渉開始の是非を問う州民投票を実施しましたが、州民の大多数はこれに反対票を投じました。
ケベックの歴史を通じて、ケベック及び、他の諸州における「フランス的事実」をどう残していくかが、州民の中心的関心事でありました。
この問題は、カナダ連邦におけるケベックの独自の地位を反映しており、カナダの2言語制と文化的な豊かさも説明するものとなりました。

1985年 ケベックシティは今日では北米大陸におけるフランス文化の残った地とされ、ユネスコの世界遺産都市に指定されました。

  

 

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